映画「島守の塔」

沖縄でのロケが順調だった映画「島守の塔」ですが、コロナの蔓延に伴う自粛でロケが延期されています。

 

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「ドキュメンタリー沖縄戦」の一般公開が無くなった時、「島守の塔」のことも頭をよぎりました。

でもスポンサーが神戸新聞などの地方紙だし心配はないのだろうと思っていました。

 

でも今年に入ってからあれよあれよと言う間にコロナウィルス( COVID19 )が蔓延し、外出が自粛され映画の制作にも大きな影響が出ているのです。

 

映画自体が中止になったりはしないのか、注視しておきたいと思います。

 

 

 

沖縄で何が起きていたのか

このブログを書き始めてから、私たち日本人が太平洋戦争について学ぶ時、断片的で自分に都合の良い知識だけをかいつまんで消費しがちなことに気づきます。

 

原子爆弾の恐ろしさ、空襲の残酷さ、特攻隊の無念、日中戦争での日本軍の暴虐、南海での戦闘や玉砕。どれを見ても最後には「命は尊い、戦争はあってはならないこと。」と呟きまた日常生活に戻ります。

 

特攻はどこで行われたのか、B29は何故本土に飛んできたのか、ポツダム宣言は如何にして無視されたのか、、、考えることはほぼありません。大阪から飛行機で1時間で飛べる距離の沖縄に何故救援が行かなかったのかということも。

 

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https://twitter.com/bouheitai1958/status/1245849061757816834?s=21

ツィッターアカウント「棒兵隊」さん

 

沖縄戦に関する記録、資料を基に1944年から1945年にかけて何が沖縄で起こっていたかをクロニクル形式で綴っておられます。2020年の現代と日付が同じになるようにアップされているので臨場感が溢れます。

 

4月3日の時点で、沖縄本島は南北に分断され、天皇からは持久戦に対する疑問が提示されています。

戦艦大和の特攻はほとんど思いつきのものでした。

県民の集団自決はすでに始まっていました。

 

島田叡に関するクロニクルは既にまとめたのですが、沖縄戦の全てはとても数ページでは収まりきるものではありません。大まかな外観だけ掴んでから

「棒兵隊」ツイッターでさらに深く学んでいきたいと思います。

 

飛行機で敵の戦艦に突っ込む特攻隊は大半が沖縄戦で行われたものです。「国を守るために犠牲になった若者の命は無駄ではなかった。そのおかげで今の日本の繁栄がある。」などという「過ち」の美化がどれだけ虚しいかわかります。

 

大和が日本近海ですぐ撃沈されたのは、既に制海権を失っていて日本の近海にアメリカの潜水艦が配備されていたからでした。沖縄からの疎開対馬丸が撃沈されたのも同じ理由です。

 

戦争は自然災害ではありません。人災です。

もう2度と戦争が起こりませんように、とお祈りしているだけではいけない、そうおもいます。

 

 

 

 

 

日本軍失敗の本質

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「ドキュメンタリー沖縄戦」の太田隆文監督がツイッターで薦めておられた本を読んでいます。 

 

第二次大戦における敗戦の原因を探る意欲作です。

日本軍が持っていた組織的問題を社会科学的科学的アプローチで論じるということなのですが、テーマは「日本はなぜ敗戦したのか」。

 

ノモンハン事件ミッドウェー海戦沖縄戦など、それぞれの戦闘でなにを失敗し、それは日本軍という組織のどこに問題があったかと論じていきます。

 

敗戦したら、その理由を研究してそれからの国づくりに活かすのが当たり前なのではないかとおもうのですが、それが当たり前でなかったことは

この研究が昭和50年代にようやく行われたことから伺えます。

 

始めに各戦闘での実態と問題点が述べられ、最後にその問題が日本軍の組織的問題にどのように繋がるのかが検証されています。

 

沖縄戦に関しては、現場の32軍は最善を尽くして島の地形や風土を生かした陣地作りをし、米軍の上陸には攻撃せず南下させ、地中から攻撃をかけ進軍のペースを落とすという実際的な作戦を立て遂行します。

 

大本営は本土決戦までの時間稼ぎをという命令を下し、実際に32軍は少ない資源で米軍の侵攻を遮ります。そのまま持久戦を続けていれば、8月15日まで戦い続けることができたとも言われています。

 

しかし大本営は持久戦とは矛盾した、積極的戦闘で戦果を挙げられないのかと催促するのです。

 

大本営にしてみれば、沖縄について占領は必至と最初から言い切っており、でも目に見える戦果はあげよという全く兵士も県民も見限ったような態度でした。

 

32軍では軍法会議が行われました。ほとんどの将校の意見は上層部の意見に従うべき、でした。なにが正しいかではなく、上の命令に従うのが日本軍の常識だからでした。

 

1人反対したのが、持久戦の作戦を策定した八原高級参謀でした。アメリカで学び、考え方が先進的だった八原は「洞窟陣地から出て戦うのは自殺行為」と反対します。

 

牛島司令官はここで八原1人の意見を取り入れることはできないと判断して、地上での戦闘を遂行し、第32軍大きな打撃を受けます。

 

この失敗から、5月末に首里撤退を強く訴えた八原の意見が通るという皮肉な結果も生まれることになります。

 

大本営の司令が現場の現状を無視して、取り返しのつかない事になったのは硫黄島の戦いでも起こりました。

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最後のアナリシスでは、元々の国力の差、八原参謀官が述べた「科学的論理性の欠如」が挙げられていますが、一番大きいのは「大本営の無力」なのではないかなと思います。

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馬鹿な大将敵より怖い。

 

敵ではなく国に殺されたのが沖縄だし、今このコロナウィルスで危機に陥った私たち多くの国民もこの

「馬鹿な大将」の怖さに少しずつ気づく人が増えているのだと思います。

 

後、この本では出てきませんが、日本軍には兵站感覚がなかった、ということも頭に入れながら読むとより多くのものが見えてきます。

 

陸軍の兵隊には食料は現地調達と決められていたのには大きなショックを受けました。海外で戦死した兵士の半数以上は餓死。華々しく玉砕した人がどれだけ少なかったか。

 

現地調達しなければならないから攻め込んだ街や村で強奪や殺人が自ずと増えてしまう。沖縄でも食料や家屋、壕が奪われ、集団自決以前にもどんどん県民が死んでいった。

 

この本が新刷され、話題になってる今、このような事実も併せて日本人がもっと敗戦に向き合えないものかと思います。

 

 

根こそぎ動員

 沖縄戦では圧倒的な戦力不足を補うため、防衛召集を実施しました。地上戦がはじまるまでには、一般の沖縄県民から2万5千人以上の一般市民が招集され、1万3千人以上が犠牲になったといわれています。

 

沖縄の根こそぎ動員は38年に制定された「国家総動員法」による国民の戦争協力体制の最たるものでした。


 1945年2月、沖縄県は戦時行政に移行し、県下市町村単位の国土防衛義勇隊を編成しました。男性は17歳から45歳、女性は17歳から40歳が現地召集の対象とされましたが、実際には15歳以下の子どもや60歳以上の老人も含まれていました。

 

軍官民共生共死の一体化です。駆り出された県民は最も危険な任務を負わされました。また招集されなかった女性や老人子供も、アメリカ軍に切り込み死亡した人が多くあります。徹底した皇民化教育を受け国のために死ぬのが当たり前と考える人が多数だったのです。

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 また、男子中学生は「鉄血勤皇隊」や「通信隊」などに、女子学生は「従軍看護隊」として学徒隊に編成されました。県内の12の男子中等学校と10の女学校から生徒が招集されたのです。わずかな訓練を受けただけで、アメリカ軍上陸直前の3月下旬には沖縄守備軍の各部隊に配属されました。彼らは装備も不自由な中、闘いの最前線に押し出されて追いつめられ、半数以上が犠牲になりました。6月22日までは、学徒を戦場に動員する法的根拠はありませんでした。

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陸軍外科壕で看護師として働いたひめゆり部隊は、6月18日の隊の解散後壕を出て戦場を彷徨い、100名以上が死亡しました。

 

在米沖縄軍は持久戦の方針を貫き、最後の草一本になるまで戦え、と県民を鼓舞しました。「生きて虜囚の辱めを受けず。」との戦陣訓を一般人にも押しつけて被害者の数を無用に増やしました。

 

このような、地上戦での一般市民の犠牲と苦しみを伝えるため、当時の県庁警察は電報を打ったり、報告部隊を派遣したのだと思います。本土決戦が実現してしまった暁には、そこでも一番の被害を受けるのは何の罪もない一般市民である。そのことを伝えたかったのだと思います。

 

もう戦争を続けてはならない。

多くの人々が思いながら口にすることもできない。

そんな状況の中沖縄戦は3カ月も続き、2発の原爆を落とされ、ソ連が参戦してようやく戦争が終結します。

 

沖縄では第32軍牛島司令官が自決した時、兵士には降伏を許さず、戦闘の継続を命じたため、終戦後も投降せず戦場を彷徨う県民も多くいました。

 

大本営も負けるとわかっていながらの、意味の無い戦いでした。守りたかったのは国民では無く国体だったのです。

 

 

 

 

 

Hell on Earth in the battle of Okinawainawa

All dead in Okinawa
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It is said that one quarter of Okinawans died in the Battle of Okinawa, including the 10-10 bombing of 1944. It is one of the most fierce and bloodiest battles of World War II.
 
The U.S. military assembled 540,000 troops that had accumulated experience of fighting Japan in the Southwest Pacific until then. The total number of Japanese troops intercepted was only 120,000 including Okinawans between the ages of 12 to70. It was a battle that could not be won from the beginning.
 
The Battle of Okinawa was regarded as Attrition Battle to delay the start of the landing operation on the mainland of Japan that the United States had formulated. From July 1944, construction of air raid shelters using natural caves (gama) and building of military bases was carried out with the cooperation of citizens of the prefecture, then on April 1, 1945, the U.S. forces (Allied forces) Landing was launched 
 
Between March 26, 1945 and the fall of Shuri in late May, 70% of Japanese soldiers died, making it virtually impossible to fight. However, the General Headquarter ordered an endurance battle, and the remaining army retreated to the south.
 
Many residents of the prefecture were evacuated to the south in preparation for the Shuri War. Some residents thought they would be safe to accompany the army. Governor Shimada repeatedly visited the military bunker while the shells were fully discharged, and worked closely with the military in order to ensure the safety of the citizens of the prefecture.
 
Basically, Shimada strongly opposed the idea for troops to retreat to the south. If so, he had planed that the prefectural citizens to move to the safe area in the east in advance.
 
However, the strong appeal of the prefectural office was not heard, and around May 24, the Japanese troops began to withdraw in the shadows of the night. Perhaps they feared that the information would leak or if the residents would move and be known to the enemy army. It was a withdrawal without contacting the prefecture government.The withdrawal was successful because the U.S. military reconnaissance aircraft could not fly since the rainy season had began and the rain continued.
 
The southern part of the prefecture became a terrible battlefield that was said to have "collected all the tragedies of this world." The chain of command collapsed, and small troops descend steadily south, continuing their guerrilla-like battle without any supplies. Japanese soldiers expel residents to hunt down bunkers, pick up food, and brutally killed the citizens if they would not obey.
 
The U.S. military deployed mop-up operation because military and inhabitants were mixed and operations were undertaken to disguise as civilians to attack.
Naval fire from the sea, machine gun shooting from the air, and tank fire from the land. Japanese soldiers carried out suicide bomb attack and residents were forced to kill themmselves in a US military attack called an iron storm. More than a thousand people disappeared a day.
 
More than 70% of the prefectural people who died in the war died between the end of May and the end of June. That shows how terrible the situation was. Some of the soldiers, including former junior high school students, died at the forefront.
 
Too many of the civilian were killed because of the one-month endurance battle to delay the U.S. military landing operations on mainland Japan as long as possible, rather than the U.S. military landing. I think here is the cause of the tragedy of Okinawa.
 
Prefectural officials and police officers, including Shimada, also headed to the south. It was to save the lives of as many the prefectural citizens's lives as possible.

"Live on!"

Shimada said to the staff and prefecturals who had fate together. At that time in Japan,it was natural to devote his life to the country, but he said, "Don't die in war." He knew that not only was the battle of Okinawa, but this war was not victorious.
 
I feel like "Live on" was also a word to tell himself. With many citizens and subordinates disappearing, Shimada himself had to fulfill his responsibilities as head of prefectural government. He told young staff, "Surrender to the U.S. Army by hand. They won't do anything wrong." However, he chose not to survive himself and go to a military bunker after the prefectural office
 
...
This is a well-organized NHK history program video that gives a good understanding of life and achievements of Akira Shimada. There was a big screen, but this is the only thing you can see right now.
 
Mr. Isoda,MC has a strong way of entering the heat and it is worth seeing. It is frankly told why 90,000 ordinary citizens of the prefecture were involved in the battle, but since the operations of the Japanese army are involved and it is difficult to clarify, I think that point is also ambitious.

“Choice of Heroes” August 13, 2015
https://m.youtube.com/watch?v=5IX_qWIsdjc
 
If it doesn't open by clicking, please copy and paste. As of the end of 2019, I feel that more and more videos are telling the story of Akira Shimada's life in relation to the edict of education, or the fact that he was martyred, dedicated his life to the country.
 
This program does not beautify him, but I think it is an excellent work that has accumulated facts including a critical viewpoint. The scale and terribleness of the Battle of Okinawa is too much in an hour to be fully described, to depict the life of Shimada and the people around him.
 
But I think it will be a very good entrance for those who want to know.

ドキュメンタリー「沖縄戦」

来年、島田叡や荒井退三の沖縄での奮闘を描く映画が作戦上映される予定なのですが、一足早く沖縄戦ドキュメンタリー映画が完成して沖縄で試写会が行われ、全国の映画館での上映が待たれていました。

 

ところが突然上映が中止に。

波紋が広がっています。

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監督は太田隆文原発事故で苦しむ家族の姿を描いた「朝日のあたる家」など、社会と人間の関わりを描き続ける鬼才です。

 

「ドキュメンタリー沖縄戦」は少ない予算の中、

多くの沖縄戦を経験した県民がボランティアで参加し、過酷な沖縄戦と巻き込まれた県民の怒りと苦しみを後世に残す問題作になりました。

 

沖縄戦の悲しみを伝えるのが私の使命」

「今こそ日本人が見るべき」

「人生観が変わる映画」

「是非全国で上映を」

など称賛が集まっています。

 

私も、ぜひ見てください!と言う記事を書くつもりでした。鉄の暴風雨、鉄血勤皇隊、地形が変わるほどの砲撃、、、等、いくら活字で書いて頭で理解していても、圧倒的な映像や体験者の生の声を聞いて初めてああ、こんなに、こんなに壮絶な戦いがあったんだ、人間の命がこんなに粗末に残酷に失われたんだと心が理解し始めるのです。

https://m.youtube.com/watch?v=81I-BLROlxY

私もまだ予告編しか見ていませんが、これだけでも圧倒されます。

 

 

 

 

 

 

沖縄戦年表 3

 

南部住民、避難民は各地の壕やガマ、墓の中に避難。各避難所を挺身隊(県職員)、教員、警察官が廻り、安全指導をした(戦場行政)。

 

日本軍が撤退してくると、壕から住民を追い出して占領したり、住民の食糧を奪ったりした。命令に従わない者は殺したり、また沖縄言葉を喋るとスパイと見なし殺した。

 

軍と住民間のトラブルが続く中、アメリカの激しい攻撃が続いた。

 

5月29日 軍から県に住民を知念、玉城地域(安全地帯)へ移動させるようにと命令。島田知事憤慨「何故早く知らせてくれなかったのか。」

軍は前もって県を通さず住民に通達したがまったく行き届かなかった。(八原参謀談)

 

5月25日〜激しい雨ぬかるみの中県庁警察部一行南部の壕を点々とする。島田「自分たちは覚悟しているが、なんの罪のない婦人や子供を1人でも多く助けてやりたい。」と宮城上兵曹に語った。

 

備蓄米も南部の壕に保存していた。

 

6月3日 県挺身隊、町村分遣隊をなるべく少人数に分け、住民をなるべく知念半島へ誘導するように指示(実質上の解散)。

 

6月5日 知事一行轟の壕に到着。県民、県職員、日

本軍が混在。日本軍の横暴で県民に死者。

    

荒井、アメーバ赤痢で衰弱する。気力を振り絞り400名の警察官を統率する。

 

6月6日  海軍大田実中佐「沖縄県民斯く戦へり」の電報を打つ。知事の意向を汲み、県民の健闘と窮状を中央に伝える。沖縄海軍壊滅。

 

米軍は掃討作戦開始。

大本営「戦争継続を決定」。

 

6月9日 県庁警察部解散。県の組織的行政終了。

6月10日頃 米軍バックナー司令官が牛島島司令官に

降伏勧告書を送る。勧告書と同じ内容の伝単が撒かれる。

 

6月16日 島田知事摩文仁の軍医壕に入る。与座の戦線が崩れ、南部の村々が戦場なり地獄絵図が繰り広げられる。

 

6月18日 バックナー司令官日本軍に狙撃され、死亡

 

6月21日 軍司令部壕入り口で、米軍が再度牛島に降伏を勧告。

 

大本営から決別の電報。「貴軍の奮闘により本土決戦準備が終了した。」

 

牛島司令官、長友参謀自決。沖縄の組織的戦闘終結

 

6月25日ごろ 島田叡、荒井と共に壕を出て消息を断つ。

 

7月2日 米軍の琉球作戦終了