根こそぎ動員

 沖縄戦では圧倒的な戦力不足を補うため、防衛召集を実施しました。地上戦がはじまるまでには、一般の沖縄県民から2万5千人以上の一般市民が招集され、1万3千人以上が犠牲になったといわれています。

 

沖縄の根こそぎ動員は38年に制定された「国家総動員法」による国民の戦争協力体制の最たるものでした。


 1945年2月、沖縄県は戦時行政に移行し、県下市町村単位の国土防衛義勇隊を編成しました。男性は17歳から45歳、女性は17歳から40歳が現地召集の対象とされましたが、実際には15歳以下の子どもや60歳以上の老人も含まれていました。

 

軍官民共生共死の一体化です。駆り出された県民は最も危険な任務を負わされました。また招集されなかった女性や老人子供も、アメリカ軍に切り込み死亡した人が多くあります。徹底した皇民化教育を受け国のために死ぬのが当たり前と考える人が多数だったのです。

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 また、男子中学生は「鉄血勤皇隊」や「通信隊」などに、女子学生は「従軍看護隊」として学徒隊に編成されました。県内の12の男子中等学校と10の女学校から生徒が招集されたのです。わずかな訓練を受けただけで、アメリカ軍上陸直前の3月下旬には沖縄守備軍の各部隊に配属されました。彼らは装備も不自由な中、闘いの最前線に押し出されて追いつめられ、半数以上が犠牲になりました。6月22日までは、学徒を戦場に動員する法的根拠はありませんでした。

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陸軍外科壕で看護師として働いたひめゆり部隊は、6月18日の隊の解散後壕を出て戦場を彷徨い、100名以上が死亡しました。

 

在米沖縄軍は持久戦の方針を貫き、最後の草一本になるまで戦え、と県民を鼓舞しました。「生きて虜囚の辱めを受けず。」との戦陣訓を一般人にも押しつけて被害者の数を無用に増やしました。

 

このような、地上戦での一般市民の犠牲と苦しみを伝えるため、当時の県庁警察は電報を打ったり、報告部隊を派遣したのだと思います。本土決戦が実現してしまった暁には、そこでも一番の被害を受けるのは何の罪もない一般市民である。そのことを伝えたかったのだと思います。

 

もう戦争を続けてはならない。

多くの人々が思いながら口にすることもできない。

そんな状況の中沖縄戦は3カ月も続き、2発の原爆を落とされ、ソ連が参戦してようやく戦争が終結します。

 

沖縄では第32軍牛島司令官が自決した時、兵士には降伏を許さず、戦闘の継続を命じたため、終戦後も投降せず戦場を彷徨う県民も多くいました。

 

大本営も負けるとわかっていながらの、意味の無い戦いでした。守りたかったのは国民では無く国体だったのです。