沖縄戦年表 3

 

南部住民、避難民は各地の壕やガマ、墓の中に避難。各避難所を挺身隊(県職員)、教員、警察官が廻り、安全指導をした(戦場行政)。

 

日本軍が撤退してくると、壕から住民を追い出して占領したり、住民の食糧を奪ったりした。命令に従わない者は殺したり、また沖縄言葉を喋るとスパイと見なし殺した。

 

軍と住民間のトラブルが続く中、アメリカの激しい攻撃が続いた。

 

5月29日 軍から県に住民を知念、玉城地域(安全地帯)へ移動させるようにと命令。島田知事憤慨「何故早く知らせてくれなかったのか。」

軍は前もって県を通さず住民に通達したがまったく行き届かなかった。(八原参謀談)

 

5月25日〜激しい雨ぬかるみの中県庁警察部一行南部の壕を点々とする。島田「自分たちは覚悟しているが、なんの罪のない婦人や子供を1人でも多く助けてやりたい。」と宮城上兵曹に語った。

 

備蓄米も南部の壕に保存していた。

 

6月3日 県挺身隊、町村分遣隊をなるべく少人数に分け、住民をなるべく知念半島へ誘導するように指示(実質上の解散)。

 

6月5日 知事一行轟の壕に到着。県民、県職員、日

本軍が混在。日本軍の横暴で県民に死者。

    

荒井、アメーバ赤痢で衰弱する。気力を振り絞り400名の警察官を統率する。

 

6月6日  海軍大田実中佐「沖縄県民斯く戦へり」の電報を打つ。知事の意向を汲み、県民の健闘と窮状を中央に伝える。沖縄海軍壊滅。

 

米軍は掃討作戦開始。

大本営「戦争継続を決定」。

 

6月9日 県庁警察部解散。県の組織的行政終了。

6月10日頃 米軍バックナー司令官が牛島島司令官に

降伏勧告書を送る。勧告書と同じ内容の伝単が撒かれる。

 

6月16日 島田知事摩文仁の軍医壕に入る。与座の戦線が崩れ、南部の村々が戦場なり地獄絵図が繰り広げられる。

 

6月18日 バックナー司令官日本軍に狙撃され、死亡

 

6月21日 軍司令部壕入り口で、米軍が再度牛島に降伏を勧告。

 

大本営から決別の電報。「貴軍の奮闘により本土決戦準備が終了した。」

 

牛島司令官、長友参謀自決。沖縄の組織的戦闘終結

 

6月25日ごろ 島田叡、荒井と共に壕を出て消息を断つ。

 

7月2日 米軍の琉球作戦終了