島田彰年表

島田叡という稀有な人生

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1901年(明治43年)

現在の神戸市須磨区の開業医の長男に生まれる。

 

1922年(大正11年)

旧制神戸二中、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部へ入学。中学・高校・大学と野球部の主将を務めた。東大時代は六大学野球のスター選手だった。

 

1925年 

内務省に入省。主に警察畑を歩む。

 

1940年(昭和15年)  

内務書記官、警務部副部長として上海に赴任。上海事変を経験する。

 

1945年 1月 

沖縄県知事に任命される。県民の内地への疎開に取り組み10万名以上の命が救われる。台湾に自ら赴き県民の食糧として米を調達する。

 

4月 

沖縄戦開始。激しい艦砲射撃の中壕の中の仮庁舎で県政を維持、軍との連絡を取りながら県民の生命と安全の維持に取り組む。

 

5月末 

日本軍が県南部に撤退。県庁警察の必死の努力や訴えが聞き入れられず、南部の住民や疎開した県民が戦闘に巻き込まれて犠牲に。

 

6月25日 

23日に牛島司令官が自決。実質的戦闘が終結した後、消息を経つ。

 

座右の銘は「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く」。沖縄では県民や県職員の一人一人に温かく接し、命は宝と沖縄の人々を大切にして最後まで県民に寄り添った。終戦から70年以上経った現在も「沖縄の島守」として慕われている。

 

・・・・・・・

県知事として多くの県民と運命を共にした「偉人」、命の危険を顧みず敢然と死地に赴く「勇気の人」、経験と人脈知性と行動力を生かして県民疎開を成し遂げた「英傑」。

 

高校生のころ何回も繰り返し話に聞いた聞いた島田知事はあまりに偉大で、自分に引き寄せて考えることのできない遠い存在でした。沖縄戦が悲惨なものだったことは、「ひめゆりの塔」のドラマや映画だけでは窺い知ることはできませんでした。

 

現在ではインターネットの普及によって、資料や文献を探す事が容易になり沖縄戦経験者の体験談を読むことも可能です。けれども、何冊か本を読んで、インターネット記事を継続して読んでも沖縄戦の全体像を掴むのは容易ではありません。

 

太平洋戦争そのものや日中戦争を含む15年戦争の公式な(公的な)記録が残されていないのは大きな障害だと思います。なので、アメリカ公式記録を文献として読みながら日本語の資料を調べていますが、知れば知るほど悲惨な戦いです。

 

2カ月間の死者が日米合わせて20万人以上。沖縄県民の死者が約9万人。

 

日本軍が住民を殺したり自決を迫ったりしたのは、生き残った方々の幾つもの証言があり紛れもない事実で、本州に暮らす者としては胸が潰れる思いがしますし、そのような記述を見ると一旦本を閉じたり画面を切り替えなければ心が持ち堪えられなくなります。

 

でも、調べ続けたい。

高校生のころから40年近くも目を逸らし続けてしまった、、今からでも少しだけでも埋め合わせていきたいと思います。

 

母校の周辺は大空襲で壊滅的な被害を受けた地域で、先生方の中には焼夷弾の降り注ぐ中を逃げ惑い家族や友人を目の前で亡くした方もおられました。

くどくどと説教をされたとか、平和学習の学習があったとかいうわけではありませんが、生々しい経験を話す先生の表情にただならぬものは感じました。

 

大学で英文学を学ぶときも英語の教師になった時も、何かしら後ろめたいものを感じ戸惑いました。

英語を生業にするのならせめて、自分の幸せや楽しみのためだけではなく、平和のために生かせるように務めなければ。という気持ちは持ち続けていました。

 

私に大した事ができるわけはないのだけれど。

 

島田知事のことは神戸でも少しずつ知られるようになり、中学の道徳の副教材にもなっています。数年前にはドラマになり、来年には映画も公開されることになっています。

 

彼の業績が広く知られることになれば今度はいろいろな解釈も出てくるわけで、国のために命を捧げた、という部分が強調されることもちらほらと見られるようになった今日この頃なのです。

 

島田彰を知る事がきっかけで、なるべく多くの人が沖縄戦のことを知ることになれば、何かが見えてくるような気がします。

 

日本語で書いたものは後ほど英語に翻訳していきたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

^_^わや

兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、旧制神戸二中時代に第1回全国中等学校優勝野球大会に出場。東大時代は野球部のスター選手(外野手)として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。この時、学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された戦没野球人モニュメントには島田の名前が刻まれている。

東大卒業後、1925年(大正14年)に内務省に入省する。主に警察畑を歩み、1945年1月の時点では大阪府内務部長を務めていた。

沖縄県知事の発令編集