アメリカ陸軍の沖縄戦全記録

アメリカ議会図書館所蔵

アメリカ陸軍の沖縄戦全記録

 

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https://history.army.mil/books/wwii/okinawa/chapter4.htm#b2

500ページに渡る公式記録。沖縄戦は「アイスバーグ作戦」と呼ばれていた。日本軍が、米軍をわざと上陸させて複雑な地形を利用した長期戦を計画したため、5日間で島が東西に分断占拠される。

 

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米軍は基地として使うために北部では戦闘は行わず、住民を捕虜にして管理した。首都の陥落以降南部で激しい戦闘になった。

 

米軍は那覇の陥落で戦闘は終結したものと思っていたようだ。この時点で降参していれば、日米双方の10万の命が救われたはずだと思う。

 

日本軍にはこのような記録がない。沖縄戦は尚のことだろう。終戦前に中央では必死になって公文書が

廃棄されたという。

 

私は那覇からの日本軍の南部撤退を、この資料と島田叡の伝記からの情報を突き合わせて理解しています。

 

戦闘の継続からして、島田は反対でした。島南部の住民と南部に避難した住民の安全を確保するため、砲弾が飛び交う中、島田知事は何度も司令部に赴きました。

 

まさに闘いでした。

 

しかし6月21日に牛島司令官は南部撤退を決め、戦闘員は極秘に異動を始めます。梅雨で雨が続き偵察機が監視しにくかったこと、兵士を住民に変装させて移動させたことなどにより、米軍が南部撤退を認識したのは25日のことでした。

 

県庁に南部撤退の指導が通達されたのは24日のことで、翌日には県庁号を出発しますが、米軍の爆撃の中困難を極める旅でした。

 

県庁の動き、日本軍の動き、米軍の動きを照らし合わせて、この周辺の出来事を時系列でまとめようとおもっています。