捨て石とは
沖縄は当初、「一撃講和」に戦いを導くための最後の防衛戦と見做され、実績のある牛島司令官が任命され、また最強と呼ばれる三師団が沖縄に派遣されました。
しかし、戦況はますます悪化して、44年11月には最強師団を台湾に持って行かれ、隊の士気は著しく下がります。
45年1月大本営参謀本部は一撃講和論から本土決戦に方針を変え「沖縄には出血持久戦を」と指令します。
沖縄は捨て石、という言葉はこの頃から軍の間で認識されはじめました。米軍の上陸は必至の中、増員も物資の補給も無くなってしまったのです。
勝つ可能性にかけて戦うのではなく、時間稼ぎのために最後の1人まで戦え。
米軍の上陸後4月2日には大本営は「沖縄の占領は必至。」という見解を出します。多くの一般市民が居住していることも承知でありながら、少しでも本土上陸を遅らせることを在沖縄軍に求め、その事が南部撤退にも繋がるのです。
捨て石というのは単に捨てる石ではなく、囲碁の用語で、捨てられる前に何か用を足せというものです。英語に直すとどうなるのか。
まさに「 Human Shield 」人間の盾、です。
他にこれといった訳語が見当たりません。
日本軍は沖縄軍を人間の盾にし、沖縄軍は県民を人間の盾にしたのではないでしょうか。自国軍や自国民を大量に殺す、このことは相手方陣営にも大きな衝撃を与えました。
せめて罪のない県民の命を1人でも多く救おうとした島田叡や県庁、警察の努力は極めて困難なものでした。
沖縄での多くの非戦闘員の死、自国兵の死、そして
日本人同士が殺し合うという惨状が原爆投下の決定に影響したという説もあります。
44年7月のサイパン陥落で制海権制空権を失った日本は敗戦を意識し、停戦工作も謀り始めるのですが、
結局それから敗戦まで1年を要することになりました。300万人の戦没者の殆どはこの1年間に亡くなっています。
次の記事で時系列でまとめてみようと思います。