沖縄戦年表 2

5月8日 ドイツ降伏

5月9日 総反攻撃の失敗を受け、戦況の悪化を鑑みて、女子職員を移動させる。

 

5月11日  内地への報告隊を派遣

 

軍は軍も県民も玉砕を。島田は県民は守るべきと強く訴える。

5月18日 シュガーローフヒルアメリカに落ち、首里決戦か撤退かの選択が迫られる。アメリカ軍は首里決戦を予測。

 

5月21日 司令部で会議①首里に留まる②南部に撤退③知念半島への撤退の案で話し合われる。

撤退を嫌う意見が趨勢だったが、八原参謀の唱える②案が通る。八原の反対を押し切って敢行した総反攻撃が失敗し、八原の発言力が高まっていた。

 

新聞記者、島田知事らが司令部に詰めていたが、情報の発表はなかった。

 

5月22日 牛島司令官記者会見「非戦闘員は早めに移動するように」と島田知事に告げる。しかし南部撤退は発表せず。

 

アメリカ軍は白い衣服を着た集団が南部に移動しているのを確認。一般市民だと認識。「一般市民は白い服を」と前持って伝単(日本人に戦況を伝えたり降伏を促すビラ)で周知していたため。

32軍は物資と負傷者を移動させていた。

 

5月23日 県庁女子職員を海軍外科壕に移動させる

5月24日 島田知事軍司令部壕への移動を打診

軍の撤退は確実と判断。後方支援挺身隊を高嶺村与座に移動するように指示。

 

牛島司令官は南部玉砕作戦を決定。

 

夜、県庁から本土に「防衛対策」意見具申の電報を打つ

*白衣の行列が続くのを米軍が確認。

 

5月25日 「六十万県民只暗闇の中に生く」の電報を打つ。島田知事らは東風隊平村の野重一連隊の壕に移動。

5月26日 *撤退する日本軍が島南端に到達するのを米軍が確認。

 

5月27日 司令部移動。住民の知念半島への移動を司令。しかし混乱の中指令は徹底せず。多くの住民が戦闘に巻き込まれることになる。

アメリカ軍日本軍の南部移動を確認。

 

5月29日 首里陥落。南部へのアメリカ軍総攻撃始まる。

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5月21日から雨季の激しいが降り続き、雨とぬかるみのためアメリカ軍の攻撃は休止。偵察機の飛行もままならないほどだった。アメリカ軍は日本軍は首里で徹底抗戦するとの予測が強く、いろいろな条件が重なり、32軍は南部に撤退して新たな戦線を築くことに成功した。

 

30000の兵力のうち歩兵兵士は1万1千人で、残りは衛生兵や地元住民の義勇隊などであった。

 

首里で降伏していれば、せめて住民を優先的に安全地帯に移動させておけば。

 

島田ら県庁職員や警察職員の住民を守ろうとする必死の努力は裏切られてしまいます。

 

本土決戦を少しでも遅らせるためにと必死に戦ったのは兵士だけではない。60万の県民もそうだった。

辛すぎる。

 

同盟国のドイツが降伏したのになぜ日本は戦い続けたのか。

*はアメリカ側の資料より