沖縄戦の年表 1
左 太平洋戦争全般 右 沖縄の状況
1944年(昭和19年)
第32軍沖縄に配備
首里城地下に司令部
建設
6月 米軍がサイパンに上陸 マリアナ沖海戦で日本海軍壊滅、*制空権・制海権を失う→本土に空爆開始
7月 *サイパン陥落沖縄決戦下令
東条内閣総辞職
終戦工作始まるも、戦争完遂を唱える
小磯内閣発足
8月 牛島司令官任命
*一撃講和を目指す
沖縄は最後の防衛戦
県民を動員し飛行場
や陣地の建設
10月3日 *アメリカ軍沖縄上陸作戦を策定
10月 フィリピン沖で初の特攻作戦
11月 レイテ島戦 日本海軍壊滅
フィリピンが陥落し
石油などの補給線が
壊滅 台湾を補強するため
最強師団が引き抜
かれる
1945年(昭和20年)
1月 大本営は 本土決戦方針を打ち出す
*「沖縄は出血持久戦を」捨て石に
*島田知事赴任
1月11日 島田叡
沖縄県知事の内命を
受理
1月12日 泉守紀
香川県知事の辞令を
受ける
2月 硫黄島陥落
近衛上奏文提出。停戦を主張するも
受け入れられず。
2月14日 ヤルタ会談
ソ連承諾
県民の本土への
疎界、北部への
避難を指導
*島田知事台湾に渡り
米を調達
32師団空港を破壊
県民からの徴兵など
持久戦に備える
4月1日 米軍沖縄に上陸
4月2日 大本営「沖縄占領」は必死と発言
鈴木内閣発足
9日 沖縄方言で喋ることを禁止
日本語を喋らないものは
スパイとみなす
27日 県南部の市町村長を県庁に
集め避難民の受け入れ要請
29日 県南部への県民疎開命令
5月4日、5日 日本軍
総攻撃、失敗
5月6日 県庁後方支援挺身隊結成
5月9日 ドイツ降伏
・・・・・
1944年7月、マリアナ諸島(サイパンなど)が陥落し、太平洋戦争は大きなターニングポイントを迎えます。次々と南洋諸島が米軍の拠点となり日本は制海権、制空権を失ったのです。サイパンから飛び立つ戦闘機は本土に空襲をもたらし、以後、数々の大都市が空襲に見舞われます。
サイパン陥落を受け、東条内閣が総辞職させられ
和平への模索も本格化します。
しかし和平工作も中国ルート、ソビエトルートなど多岐に渡りどれも効果がでないまま、フィリピン、硫黄島も次々占領され、沖縄は最後の防波堤と位置付けられていきます。しかし、沖縄決戦の作戦も当初は強力な部隊を集め「一撃講和」路線が取られますが、年末には本土決戦方針が固まっていき、「本土決戦の時期を遅らせるための持久戦」へと変化していきます。
兵士や軍需の補給も無く在沖縄日本軍の士気も激しく低下していたのです。決戦はともかく、持久戦をする兵力もありませんでした。
島田叡が知事に任命されたのは、この沖縄が捨て石になるという判断が下された時期でした。
その後、ヨーロッパ戦線も出口が見え始め、ヤルタ会談ではドイツ降伏後にソ連が対日参戦することが決まるなど大きなうねりがあり、ソ連の仲介をあてにした鈴木内閣の和平工作は宙ぶらりんにぶら下がったままの状態になってしまいます。
日本の戦没者訳300万人のうちの大半がこの1944年7月以降に亡くなっています。
私たちがテレビドラマを見て戦争中だなと感じるのは空襲があったり、学徒動員、特攻隊の出撃だったりするわけですが、少年兵や一般市民への空爆、自爆攻撃は本当に異常な状況で、末期的な状態だったのです。
「第二次大戦は、戦いを始めるのは容易であったが、終わらせるのは困難だった。」(加藤陽子「止められなかっ戦争」NHK出版会)
1942年 大日本帝国最大勢力圏
太平洋戦争開戦時は中国戦線も継続中で戦線が拡大し、戦力の分散が必要だった。太平洋では島嶼戦が行われるが、敵がどこから攻めてくるかが見越せないため戦力の集中ができなかった。
第32軍は中国戦線で戦った精鋭で、司令官牛島も中国戦でその名を馳せた名将でした。しかし、軍中央の方針偏向に沖縄軍が振り回され、精鋭部隊を台湾に引き抜かれた上に補充もないという極限状態に置かれます。日本軍上層はアメリカ軍が台湾に上陸する見込みで動いていたのです。
アメリカ軍の勢力は第32軍の数倍、火力は10倍以上と把握されており、高級参謀八坂はアメリカ留学の経験生を持つリアリストで、沖縄の地形を生かした洞窟陣地の建設を急ぎ、上陸後のアメリカ軍に苦戦を強いて持久戦を戦いました。
限られたリソースで最大の効果を上げる持久戦に、中央参謀本部は疑念を抱き、長参謀は総攻撃を主張して八坂は強く反対しますが無謀な総攻撃が仕掛けられ日本軍は大きな損失を被りました。
島田知事はこの総攻撃の翌日に、住民の保護のための後方支援挺身隊を設立しました。