沖縄戦年表1

首里攻防戦の日本軍の抵抗

 

米軍の沖縄侵攻においては、日本軍は米軍の上陸には逆らわず、構築した陣地に引き寄せて一気に反撃する戦略を取りました。

 

西の湾から上陸した米軍は4日で島の東岸まで占領して沖縄島を南北に分断し、上陸作戦はまるでピクニックのようだったと記録されています。

 

しかし、4月8日からの日本軍の反撃は、綿密な作戦に基づく持久戦をたたかい、米軍は苦戦します。

戦いの長期化と戦死者の増加で米国世論が指揮官バックナーを非難するほどでした。首里陥落は5月21日と、1ヶ月半を要する激戦になります。兵力も軍備も数倍強大な米軍に対し、かなりの善戦を遂げたと言ってよいのでしょう。

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32軍は硫黄島の戦いに倣い、地下に陣地を構築して戦いに臨みました。首里の北側は丘陵地帯になっており、その地形を生かした陣地です。

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左下が日本軍司令部の方角を示しています。司令部は首里城の地下にありました。
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一見では陣地とはわからないようにカムフラージュしていて、何処からともなく攻撃を受けた米軍は翻弄されました。陣地に気付いて反撃されると、日本兵は通路を通り反対で待機したり、また違う方向から攻撃をするという戦法で敵軍に打撃を与えました。

 

この作戦を立てたのが高級参謀八坂でした。アメリカに留学した経験があり、アメリカ軍の戦力を精密に分析し合理的な作戦を立てて、敵軍からも評価されるほどでした。

 

しかし大本営は、地道な持久戦にいらだち総力戦という無謀な命令をします。結果多くの戦力が失われ、首都陥落までに7割の戦力を失います。

 

八原参謀は米軍の捕虜になり生還しますが、後に

「持久戦作戦を貫けていれば、8月15日まで沖縄は持ち堪えられた」と語っています。

 

首里が陥落しなければ、南部戦も起こらず、住民の被害があれほどに広がることもなかったはずです。

八原参謀が5月の末には南部撤退を強く主張したのは皮肉なことです。6月23日の牛島司令官自決まで戦いを引き延ばすことには成功しました。

 

南部撤退までに島民を安全な知念半島に避難させることができていれば。

悔やまれます。

 

島田知事と県職員、警察官は鉄の嵐が降り注ぐ中、県民の指導や軍との連絡のため、活動を続けていました。

 

過酷な状況の中でも最後まで希望を失わず、勝利と生還へと歩み続けていたのだと思います。